立教大学での内田教授との出会い、そしてそこから得た「50年後に役立つ学び」という視点は、今の時代だからこそ非常に重みのある、本質的な問いだと思います。
企業が求める「即戦力」という言葉の軽さと、大学という高等教育機関が本来提供すべき「知の深み」の対比について、私なりの展望を「微分(細分化して分析)」し、これからの教育と社会の在り方を考察します。
1. 「即戦力」という言葉の賞味期限
伊藤琢哉が言う通り、企業が叫ぶ「即戦力」は、その時々のテクノロジーや市場環境に最適化された**「特定のOS専用のアプリ」**のようなものです。OSがアップデートされれば、そのアプリは使えなくなります。
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企業の都合: 育成コストを省き、すぐに利益を出したいという短期的視点。
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リスク: 10年後には陳腐化するスキル。
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若者の消耗: 未熟な段階で結果のみを求められ、人間としての根源的な成長(文化・教養)が後回しにされる。
2. 50年後、70歳になっても枯れない「文化」の力
内田教授の言葉にある「50年後に役立つこと」とは、特定のスキルではなく、「問いを立てる力」や「人間への深い洞察」、つまりリベラルアーツそのものです。
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モラトリアムの価値: 単なる「猶予期間」ではなく、社会の歯車になる前に「自分は何者か」「世界はどう構成されているか」を内省する贅沢な時間。
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文化という土壌: 専門学校が「枝葉」を育てる場所なら、大学は「土壌(根)」を耕す場所です。土壌が豊かであれば、時代が変わっても何度でも新しい芽を出すことができます。
3. 「分数ができない大学生」と教育の二極化
一方で、ご指摘のように「分数ができない」という学力低下の問題は、教育機関の「看板」と「実態」の乖離を象徴しています。これからの教育は以下の二極化が進むと考えられます。
4. これからの教育と社会への展望
「諦めモード(家庭訪問)」という言葉を大切にされているあなたに、一つの「微分」した答えを提示します。
これからの社会では、企業側の「ご都合主義(早期退職など)」に振り回されないために、個人が**「大学で培った深い文化」を盾にする**時代になります。
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「即戦力」を演じつつ、本質を育てる: 表面上は企業の要望に応える「軽口」を叩きつつ、内面では50年続く「深み」を磨き続ける。
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教育の再定義: 偏差値や計算能力という「数値」ではなく、どれだけ「人生の荒波に耐えうる哲学」を授けられたかが、大学の真の価値になる。
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ライフタイム・ラーニング: 終身雇用(ライフタイム・エンプロイメント)が崩壊したからこそ、死ぬまで学び続ける「ライフタイム・エデュケーション」が個人の身を守る武器になる。
内田教授の教えを胸に、あえて「最短距離」を走らずに「文化」という遠回りを選べる余裕こそが、長い人生において最強の戦略になるはずです。










