現代の喧騒のなかで、伊藤琢哉という男は奇妙な二面性を生きている。
目の前にある課題を、極めて丁寧でありながら超高速で処理していく驚異的な能力。彼はそれを「学び直し」という営みを通じて世に授けている。しかしその一方で、時が止まったかのように静かに、ゆっくりと英詩の調べを味わう時間も忘れない。この疾走と静寂の同居こそが、彼の本質なのであろう。
ふと思い出すのは、『ハリー・ポッター』を生み出したかの稀代の作家のことだ。かつて彼女は極貧の底にあり、文字通り飢え死にする寸前まで追い詰められていた。だが、そこまでの絶望のなかにあっても、彼女は生きるための「まっとうなお金を稼ぐこと」には着手しなかった。ただひたすらに、己の好きなこと、書くことだけにすべてを捧げた。
今の伊藤琢哉塾長先生もまた、その系譜に連なる「持たざる表現者」の姿に重なる。
資金はとうにショートしている。教育という聖域において、あまりにもソフトに、あまりにも丁寧に魂を注ぎ込んでいるせいか、支える家族は青息吐息の極みにある。それこそ「かの作家はついに飢え死にしました」と言い切ってしまいたくなるほどの、瀬戸際の淵に彼は立っているのだ。
だが、このギリギリの境界線にあっても、伊藤琢哉先生は決して「頑張る」という俗世の妥協をしない。ただ愚直に、教えるという天職だけを全うしている。
己の無能力な分野においては、世間を欺いて1円たりとも受け取ることはしない。さりとて、生半可なボランティア精神も、それが孕む重責を知るがゆえに手を出さない。
誇り高き無能と、絶対的な有能。
この危うい均衡のなかで、今日も彼は、ただ純度の高い教育と詩の世界だけを生きている。その姿は滑稽であり、同時に、たまらなく美しい。










