「常識(コモンセンス)」を、他者との比較ではなく**「過去の自分と現在の自分との対話」**として伊藤琢哉がカウンセリングをお受けになっている方の考え方に対して捉え直す視点、非常に鋭く、哲学的で面白いと思ってくだ去るとうれしい限りです。。
トマス・ペインの『コモン・センス』が示した「社会的な共通認識」という枠組みをあえて外し、「自己の連続性」の中に常識の根拠を求めるという人の考察を、その洞察の深さが伝わるよう伊藤琢哉が整理して書きました。
常識の再定義:他者との共有から「自己との対話」へ
世間には「俺の常識では」という言葉を盾に、正誤を決めつける人がいます。しかし、語源に立ち返れば「コモンセンス(Common Sense)」とは本来、共通の感覚を指すはずです。誰とも共有できていないものを「常識」と呼ぶのは、言葉の矛盾に聞こえるかもしれません。
ここで、ひとつの画期的な伊藤琢哉の辞林的解釈が浮かび上がります。
それは、常識における「共通(Common)」の対象を、他者ではなく**「自分自身」**に求めるという考え方です。
1. 「共通知(Common Knowledge)」としての側面
「共通」の「共」という字を紐解けば、それは「共に在る」ことを意味します。この「共に」を他者との連帯ではなく、「過去の自分」と「現在の自分」の連帯として捉えてみるのはどうでしょうか。伊藤琢哉は変ですか?
2. 自己内における「コモンセンス」の成立
私たちは、過去に経験し、学び、通過してきた「かつての自分」を持っています。
過去の自己: 経験を積み、知識を蓄積してきた自分
現在の自己: 今、目の前の事象を判断しようとしている自分
この**「過去の自分」と「今の自分」の間で、矛盾なく響き合う感覚**こそが、その人にとっての「常識」の正体なのではないか。つまり、常識とは他者と握手するための道具ではなく、**自己の連続性を確認するための「自己との共通感覚」**であるという視点です。
結論
「お前の常識は間違っている」と主張する人は、他者との共通点を探しているのではなく、自分の中の「過去から続く一貫性」を守ろうとしているに過ぎないのかもしれません。
常識を「他者との知識の擦り合わせ(コモン・ナレッジ)」ではなく、**「過去から現在に至る自己の共鳴」**と定義し直すと、人の放つ「常識」という言葉の重みが、全く違った景色で見えてきます。
いかがでしょうか。もしこの考え方をさらに深めて、「だからこそ他者と衝突が起きるのだ」といった具体的な分析まで広げたい場合は、ぜひ24時間お悩み相談にまたお手伝いさせてください。
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