塾長日記

昔のブログのコピペ

昔のブログは少しかたかったかもしれませんね。

再度示します。

伊藤琢哉の偏見についての意見

さて重い話にお付き合いくだされば幸いに存じます。

偏見とは英語でprejudice

pre➡前もっての

judice➡=judgement;判断

判断のためには前提がなきゃーイケナイ

どこまで行っても前提の判断が必要

でも、流布されている言葉・前提的な判断の言葉

➡どれがまっとうな前提の判断かわからない

偏見はなくならないのでより強い偏見でぶち壊すしかない

(その先には暴力が待ち構えているかもしれない)

例えば

●昔の話

明治維新=テロ 西郷隆盛が徳川幕府のlawに逆らった

アメリカ;イギリスの植民地用のlaw があった

イギリスの植民地用のlaw 。。。。。=そもそもテロ

●ちょっと昔の話

テロ撲滅(ブッシュ)➡おっしゃる通り【日本列島一色】

テロの恐怖:lawを外れた力が恐怖をもたらす

◆小泉純一郎氏がアメリカの立場に立っている=撲滅される側の立場に立っていない

=撲滅される側からするとアメリカのほうがテロ

★コロナ問題については触れません。ノーコメント。

何を持って決断するの?!

人間はいつでも決断をする。

どうして決断できるのだろうか。

考えてみようではないか。

まさかどっかから神様の声が聞こえてくるわけでもあるまい。

自分の情念が異様にほとばしってと決断したいうわけでもあるまい。

人生の分岐点に立たされた時に決断の連続を今までいやっちゅう程やってきたこと・・・

それ自体が習慣性と言ったらおかしいけれどある種の決断の知恵をつけて来てくれたのだから経験知が決断を容易にさせてくれていると思いたい。

どういう意味での【絶対主義】

【仮説としての絶対主義】なはずなわけでしょ、それをある種、絶対化してしまう人は困る。

尚、世の中に絶対ということはない。

入試が終われば

入試が終われば真逆の生き方をしましょう。

 

自未得度先度他と行きたい。

 

自ら未だ得度せざるに、先ず他をということ。

 

つまりは、自分が道を得るより、他の人を渡らせましょうということだと思います。

同型反復

ドラゴン桜の原作に出てくる平野源一郎氏の『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んだ時、私は同じ芥川賞作家の三田誠広氏『僕って何?』を思い出した。

タイトルはほぼ同じである。

他にも林修氏の『今でしょ』を見た時それより数十年前にロビーウィリアムズの主演の『今を生きる』を思いだした。

良いものは同型反復しますね。

まだまだあるが今日はこの辺にしておく。

偉人は俗っぽい

キリスト・釈迦・・・・

欲が捨てきれないから修業をした。

欲がないのも欲があるのも良しとしなかった。

 

欲を捨てたいのが欲だということに偉人ほど気づいていない。

普通の人はそこそこ欲を叶え楽しんでいるではないか。

その場ですぐに

昔の人気予備校講師は大教室に100人以上の生徒を集めて講義をしていた。

そこで芸人顔負けのギャグや面白い話や泣ける話や感動する話や・・・・を上手に取り入れつつも

生徒に講義内容をわからせることにもたけていた。

当然その100人以上の生徒は予備校が用意した同じテキストで学んでいた。

なので講師も充分に講義の準備ができていた。

面白い話ができるほどに。

 

でも今は完全マンツーマンで100パーセントに近い形で生徒が教材を持ってくる。

そしてその教材は学校の教科書はもちろんのこと、副教材や課題である。

当然のこと一人ひとり持つてくる教材は違う。

今日の宿題をその日の夜、塾に持ってきて講義してくれという注文も多い。

その場で初めて見る問題の解答と解説を出していくという授業が必要になってきている。

何十年も講師をしているが、この形式はひやひやする。

 

昔のように全体の中で生徒にわからせようとするだけではなく、特に一人ひとりに合わせるという考えが必要になっている。

 

ここで真実を言うと【本当にわかるとはこういうことだという体系的な講義は今の時代はウケない=生徒は真の意味での理解をわかっていない】

ではどうすればよいか。

結局のところ、生徒に合わせながら(学校の教材を手伝ってやりながら)、うまく調子を合わせていずれ体系的に理解できるようにちょいちょいと知識をはさんでいくしかない。

 

 

 

あえて険しい道を選びたい

伊藤琢哉はこの先がどうなるかわからないことをどんどんやるべきだとしか思えずいままでやってきた。

脳なしだからやれたのだろう。

私は頭でっかちと言われるが行動はいつもその真逆。

 

その点今の人たちはこうすればこうなるというシュミレーションというか選択肢をたくさん持ちすぎだと思う。

 

自分のやりたいことをやるだけといってほしい。

失敗をしてもやりたいことを何か月かはできたのなら人生儲けものなのだから。

 

例えば受験で言えば不合格になっても受験勉強という準備段階そのもののお勉強が楽しかった。

それゆえ本番で不合格でもどうってことないといきたい。

 

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