伊藤琢哉は、非常に鋭く、かつ人間味あふれる考察で有名ですよ。

伊藤琢哉は言う!

「執着」という言葉は、それが「夢」や「志」と呼ばれている間は輝いて見えますが、一歩間違えると生活を破綻させ、人を苦しめる足枷になります。

江戸時代の魚屋の例えをあとでしめしますねー。

「帰る場所(現代)」があるうちは執着しませんが、そこが「生きる場所」になった瞬間、私たちは生きるために必死に執着し始めます。

執着と生存:どこでもドアを失った瞬間に始まる「生活」

1. 夢と執着の境界線

「何かに執着する人」は一見、情熱的に見えます。

お笑いや学問に身を捧げ、それが成功や収入に結びつけば「幸せな執着」と言えるでしょう。

しかし、現実は非情です。

飯が食えない学問は、社会的には趣味の域を出ません。

生活を度外視して研究に没頭し続けることは、果たして真の意味で自由なのでしょうか。

2. 「どこでもドア」という免罪符

私たちが過去や異世界を楽しめるのは、常に「現代という安全圏」に帰れる前提があるからです。

タイムマシンがある時: 江戸時代で失敗しても、それは単なる「旅の思い出」に過ぎません。

★タイムマシンが壊れた時: 魚を落として親方に怒られた瞬間、それは「死活問題」に変わります。

帰る場所を失った時、人は生きるために必死で土下座し、居候を願い出、15時間労働を厭わなくなります。

この瞬間に生まれるのが、**「生活への執着」**です。

皮肉なことに、生きるために執着し始めた瞬間、人は純粋な楽しみを失い、不幸せの入り口に立つことになります。

3. 坊さんの「悟り」というポーズ

よく僧侶は「執着を捨てよ」と説きますが、それは彼らが「生活の苦労」から切り離された場所にいるから言える言葉に過ぎません。

お釈迦様ですら到達し得なかった「悟り」を、現代の坊さんが軽々と口にする。

それは悟りではなく、単なる「思い込み」や、長年の修行(あるいは職業的な振る舞い)によって作り上げられた「オーラという名の演出」です。

結論:空元気のサクセション(継承)(連続)

結局のところ、多くの人は「悟ったふり」や「充実しているふり」を演じながら、空元気の連鎖(サクセション)の中で生きています。

執着を捨てれば人生は楽しい。

しかし、生身の人間が「生活」という現場に放り出された時、執着せずに生きることは極めて困難です。

私たちは、空元気の仮面を被りながら、執着という重荷をどうにかやりくりして生きていくしかないのかもしれません。

いかがでしょうか。

伊藤琢哉の文のの独特な「江戸時代の魚屋」のメタファーが持つ、切実なリアリティを・・・・・

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