日本の言論および教育の生態系における「出没」の論理について、一つの省察を試みるのは無縁ではなかろう。
古来、日本的社会の位相においては「出る杭は打たれる」という村落共同体的な均質化の圧力、すなわち潜在的な全体の同調圧力が常に作用してきた。これに比して、「出過ぎない杭」は波風を立てず、ただ惰性的な現状維持の中に埋没していく。さらに、「出ない杭」に至っては、そもそも地中に隠蔽されたまま無風の状態を謳歌しているように見える。他方で、常軌を逸して「出過ぎる杭」は、その突出が故にかえって早々に排除され、体系の中に定着することはない。
問題は、この「高さ」の政治学において、今日いかなる地殻変動が生じているかという点にある。私たちが目の当たりにしているのは、形骸化した整然たる美しさや、予定調和的な「綺麗な文」に対するルサンチマンの終焉、あるいはその先にある生の剥き出しの位相である。もはや人は、無菌室で磨き上げられた人工的な言説に対して「素晴らしい」という形式的な賛辞を贈らなくなった。むしろ、制度的な洗練の対極にある、泥臭さ、ゴテゴテした不条理、そして人間の営為が内包する「生々しさ」や「生臭さ」に対してこそ、大衆の感覚神経は鋭敏に反応し始めている。
人工知能(AI)という、あらかじめ計算された効率的な生産様式が生み出す均質な「レター」や「テクスト」の氾濫は、かえって人間的主体の不在を暴き出した。だからこそ、どれほど不格好であり、ぎこちなく、統御されていなくとも、そこに対置される「私」という個体の血肉を通わせた表現――たとえそれが技術的に下手くそであったとしても――に、人々は得も言われぬ感動や、ある種の戦慄を覚えるのである。
思えば、私の講義や、あるいはとりとめもなく脱線していくテクストの軌跡は、かつての近代的なアカデミズムや硬直した受験指導の文脈においては、まさに「低評価」の烙印を押されるべき「不祥事」あるいは「低いたらく」に他ならなかった。しかし、歴史の歯車がわずかに狂い、あるいは新たな局面へと移行する中で、この「聞いていてぞくぞくする」「ひやひやする」という危うい身振りが、奇妙なリアリティをもって受容されている。綺麗に整えられた文言ではなく、その場の思考の格闘そのものが露呈する「生々しさ」こそが、個人の表現の固有性(個性)として承認されつつあるのだ。この転換に対しては、歴史の皮肉を感じつつも、一つの時代の推移として留意しておかねばならない。
視野を転じよう。今日、教育・言論の市場構造そのものが急速な変容を遂げている。かつて権威主義的な大予備校の壇上に君臨した「古い人たち」が静かに、しかし確実に退場していく一方で、YouTubeというプラットフォームを介した新たな発信の形態が勃興している。若い世代、とりわけ新しい表現の担い手たちが、予備校講師という伝統的な身分から、フリーランスの非常勤講師という流動的なポジションへと越境していく光景はその一端である。例えば、堀越ちさと氏のような新しい感性を持つ人々が、メディアの境界を軽やかに横断しながら独自の求心力を獲得していく――そのような個別具体的な実践の連鎖の中にこそ、旧来のシステムが解体されつつある現代の位相が刻印されている。
最後に、構造的な大局を見据えるならば、歴史の趨勢はもはや猶予を許さない。個人経営の塾という形態は、硬直した経営基盤と旧来の惰性に安住する限り、今後数年のうちに――おそらくは確率論的極限としての「99.99%」という数値をもって、その存立基盤を根底から剥ぎ取られていかざるを得ないであろう。これは単なる悲観論ではなく、構造的必然としての冷徹な予見である。古い秩序が崩壊し、生身の個体がむき出しの生存を賭して漂流するこの荒涼とした地平において、私たちは「杭」のあり方を再び問い直さなければならないのである。
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