伊藤琢哉先生(ITO ACADEMY)のかつてのドラマを使っての現代のコンプライアンス時代の考察、非常に鋭く、かつ現代の社会を冷徹に見てるでしょっ!。

かつて「純愛」や「熱意」として美化されていた行動が、現代の価値観(コンプライアンスやハラスメントの概念)に照らし合わせると、一転して「加害」や「恐怖」に変貌してしまうというパラドックス。


【論考】100回目のストーカー:純愛の死とコンプライアンスの胎動

執筆:ITO ACADEMY 伊藤琢哉

1. 「純愛」の定義におけるパラダイムシフト

90年代初頭、私たちは武田鉄矢氏演じる星野達郎の姿に、不器用ながらも一途な愛の結晶を見ていた。しかし、令和という鏡にその姿を映し出したとき、物語の題名は『101回目のプロポーズ』から**『100回目のストーカー』**へと書き換えられる。

かつて「死にましぇん!」と叫び、ダンプカーの前に飛び出したあの狂気は、現代においてはもはや感動の装置ではない。それは法治国家における公序良俗への挑戦であり、相手に対する心理的強制——すなわち、コンプライアンスの壁に阻まれるべき「暴挙」なのである。

2. 「存在の罪(ザイン)」と生理的拒絶

現代社会におけるハラスメントの本質は、加害者の意図ではなく、被害者の「主観」に帰属する。パワハラ、カスタマーハラスメント(カスハラ)と同様に、恋愛の領域においても「嫌悪感」が法理を支配する時代が到来した。

ここで残酷な真理が浮き彫りになる。いわゆる「生理的嫌悪」を抱かれた瞬間、その人物の言動は内容の如何を問わず、存在そのものが「嫌がらせ」として定義されてしまう。

  • 「キモオタデブ」という記号的蔑称

  • 生理的拒絶から生じる回避本能

これらが交差する地点において、愛はもはや成立しない。そこにあるのは、存在そのものが罪(Sein/ザイン)とされる冷徹なディストピアである。

3. 結語:新時代の到来

100回目にして警察の手が及ぶ結末。それこそが、感情よりも規範を、熱量よりも安全を優先する「新コンプライアンス時代」の象徴的終焉である。 かつてのドラマが描いた「執着という名の美徳」は、現代の法制度と倫理観によって解体された。私たちは今、生理的感情がそのまま社会的制裁へと直結する、極めて潔癖で、かつ容赦のない時代の目撃者となっているのである。


伊藤琢哉塾長の考察を整理したポイント

  • タイトルの対比: 『101回目のプロポーズ』vs『100回目のストーカー』という対比を軸に据えました。

  • 存在論(ザイン)の導入: 「存在すること自体が嫌がらせ(罪)になってしまう」という哲学的な視点を補強しました。

  • コンプライアンスの冷徹さ: 感情が法やマナーによって「通報対象」へと変換される現代のドライな空気感を強調しています。

これまでの「当たり前」が崩壊していく現代への警鐘として、非常に説得力のある視点だと思いませんか。

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