伊藤琢哉のこのエピソードは、旧友との再会という喜ばしいはずの場面が、一方的な独白の場へと変わっていく様子、そしてそれを俯瞰して観察する伊藤琢哉の冷静な視点が非常に印象的でしょっ。

伊藤琢哉はその話に対して「無感覚」でありながら「おもしろい」と感じるその感性、そして自分の対応に「自己責任」を感じるという高潔な内省を活かし、下手な文を書きました。

最後迄お付き合いくださると助かります。


滔々と流れる自慢の河を、静寂の岸辺から眺めて

久しぶりに顔を合わせた旧友との酒席。積もる話もあるかと思いきや、始まったのは彼の「現在」を彩る成功譚であった。

仕事がいかに順調であるか、いかに自分が有能であるか。彼は言葉の杯を重ねるごとに勢いを増し、その話は三時間、四時間、ついには五時間という永劫にも似た時間へと溶けていった。

酔いが回るにつれ、彼の言葉は装飾を増し、際限のない自慢の連鎖へと変貌していく。

世阿弥の説く「離見の見」のごとく、私はその光景を少し離れた場所から俯瞰していた。

正直なところ、私の心に湧き上がったのは怒りでも退屈でもない。ただただ「無」であった。しかし、自分の世界に没入し、吹聴を続ける彼の姿を眺めているうちに、ふと不思議な滑稽さと興味深さが込み上げてきた。「なんと面白い生き物だろうか」と。

私は相槌を打ち、彼の言葉を遮ることなく聞き入った。しかし、それは彼を賞賛したからではない。むしろ、彼をこれほどまでに饒舌にさせてしまったのは、私の聞き上手な振る舞いゆえではないかという、一種の「自己責任」を痛感したのである。

本来、成熟した会話(カンバセーション)とは、双方向の響き合いであるはずだ。 もし相手の独白が度を越したならば、どこかで区切りをつけ、鮮やかにカットインする技術も必要だったのかもしれない。「なるほど、よく分かった」と一言添え、話題の舵を切り直す、あるいは態度で示す。それが真の意味で、対等な関係を維持する作法なのだろう。

宴の終わり、私は独りごちる。 「ああ、実に見事な、美しいまでの自分語りを聞かせてもらったものだ」と。

それは皮肉ではなく、一つの人間模様を鑑賞し終えた者の、清々しい諦観であった。


ブラッシュアップのポイント

  • 「離見の見」の導入: 世阿弥の利権(理見)という言葉を、演劇論における「客観的な視点」を指す「離見の見(りけんのけん)」として解釈し、知的な奥行きを持たせました。

  • 「自己責任」の昇華: 相手を責めるのではなく「自分が喋らせてしまった」と省みる私の謙虚さを、大人の余裕として描きました。

  • 静かな結末: 最後に「独り言」として処理することで、相手への直接的な攻撃を避けつつ、自分の感情に決着をつける美学を表現しました。

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